クヌルプに魅せられて

Last-modified: Sat, 17 Jul 2010 19:50:06 JST (3071d)

 僕が初めて読んだヘルマン・ヘッセの小説は「青春は美わし」だったが、「車輪の下」や「郷愁」を経て「クヌルプ」に出会った時から、僕はヘッセの愛読者になった。高校生時代のことである。

 「漂泊の人」とも訳されている、『クヌルプの生涯の3つの物語』という副題を持つこの 小説は、定職も住居も持たず、いわば無為に人生を過ごした流浪の旅人クヌルプの生涯 を、3つの章に分けて点描したものである。

 第1章の『早春』では、旧友宅に寄寓することになったクヌルプが、親方になり家庭を 持った幾人かの友人を歴訪したり、隣家の女中をダンスに誘い出したりする様子が描かれ ている。人々は浮浪者としてのクヌルプを蔑みながらも、クヌルプの生きざまに牽かれ、 自由であることへの憧れを心に抱く。

 第2章の『クヌルプの思い出』では、クヌルプと放浪の旅を共にしたことのある友人が、その思い出を一人称で語る。「美しいものはいつも、悲しみや不安を伴う。花火が美 しいのは、すぐに消えてしまうのだという儚さと結び付いているからこそだ。」というク ヌルプの言葉が印象的である。そしてある朝「私」が目覚めた時、クヌルプの姿はない。

 終章の『最期』では、年老いてなお放浪の旅を続けていたクヌルプが、無為に過ごした 自分の生涯について神と対話しながら、雪に埋もれて息絶えてゆく。死が美しく描かれた 文章の一つであろう。

 高校生時代、大嫌いな英語の時間を少なくしたいというだけの不謹慎な理由でドイツ語 を選択した僕だが、いつの日か、「クヌルプ」を原文で読みたいという思いは持っていた。 それだけに1982年の夏、オーストリアの田舎町の小さな書店で「クヌルプ」の原書を見つ けた時の喜びは今も忘れられない。旅に出る時はいつも1、2冊の本を携行するのが僕の 以前からの習慣だったが、その時以来この「クヌルプ」は、常に僕の旅の道連れになってい る。辞書を持たぬ旅の途中の拾い読みだが、繰り返し読んだ訳文が頭に残っているのでお およそは理解出来る。ことに終章の神との対話の部分などは、会話文が主なので構文はや さしいし、単語も比較的平易である。ドイツ語を選択している諸君のために、簡単に抜き 書きしてみよう。

 神は言う。"In meinem Namen bist du gewandelt und hast den seßhaften Leuten immer wieder ein wenig Heimweh nach Freiheit mitbringen müssen."「私の名にお いてお前はさすらった。そして定住している人々のもとに少しばかり自由への憧れを繰り 返し持ち込まねばならなかった。」と。無為に過ごした放浪の旅を私の名において為した ことだと神に諭されて、満足して微笑むクヌルプに、最後に神様は尋ねる。 "Und alles ist gut? Alles ist, wie es sein soll?" "Ja", nickte er, "es ist alles, wie es sein soll." 「それで何もかも良いんだね?何もかもあるべき通りなの だね?」「ええ、」と彼はうなずいた。「何もかもあるべき通りです。」そう答えてクヌ ルプは、降り積もる雪に埋もれて息絶える。

 ヘッセの小説には芸術家を主人公にしたものが多い。「春の嵐」は音楽家、「知と愛」 は彫刻家、そして「湖畔の家」は画家である。「クヌルプ」の訳者高橋健二氏はあとがき の中で、クヌルプを「生活の芸術家」だと述べている。「クヌルプ」もまた芸術家小説な のだろうか。

 退職したらしばらくザルツブルクに住みたいという、長年温めて来た僕の夢の実現が近 くなった。モーツァルトが生まれ育った街で四季を体験するのが主な目的だが、ヘッセの 小説の舞台になった南ドイツへの旅も楽しみの一つである。

平成5年(1993年)12月24日発行の、岡山城東高校図書委員会『図書館報』第13号による