ショパンの揺籃の地を訪ねて

Last-modified: Mon, 17 Dec 2007 10:08:36 JST (3721d)

 ジェラゾヴァ・ボーラ、ショパンの誕生の地。我々の行程表にワルシャワ宿泊が含まれることを知った時、先ず私の頭に浮かんだのはこの地名だった。行きたい、なんとしても! そしてパリはショパンの終焉の街、お墓もある。私の行程表には、ショパンとの対話が組み込まれた。

 9月16日午後、平中氏、佐藤氏を通して、ガイドのダーナさんに、行き方、料金などを尋ねてもらう。しばらくやりとりがあったのち、私のどうしても行きたい様子が通じたのだろう、OKと言ってタクシーの運転手を連れて来た。

 また交渉しばし。写真を撮りたい時などは肩を叩けば止まってくれる、という細かいところまで打ち合わせが出来、ジェラゾヴァ・ボーラ行きが実現。通じ合う言語を全く持たないタクシーの運転手と乗客との、往復120kmのドライヴが始まった。

 かなりゆったりした2車線の道。両側に続く美しい並木、点在するお菓子のような可愛らしい民家、草地、にわとり、老夫婦が乗った荷台付きの馬車。のどかな田園風景が、まだいくらか運転手に対する警戒心を残していた私の気持ちを和らげてくれた。

 牧場のほとりに車を停めてもらい、写真を撮る。「ありがとう」と言って車に戻った私を、彼は黙って微笑んで迎えてくれた。ジェラゾヴァ・ボーラ4kmと書かれた標識を右に折れ、狭い道に入る。黄葉を始めた並木が、美しい木陰のトンネルをつくっている。ショパンの頃はどうだったのだろうか。

 ショパンの生家は、深い緑の木立の中にひっそりと建っていた。開け放された窓からマズルカの演奏が聞こえる。ベランダの前に置かれた幾つかのベンチで、ピアノの演奏に聴き入る人々。ベコニアの鮮やかな赤が窓枠の白と強い対照をつくっていて明るすぎるほどだ。コンサートの最後は「英雄ポロネーズ」。梢を吹き抜ける風の音とポロネーズのリズムが交錯して、160年余の歳月を隔ててショパンの幼年時代を彷彿とさせる。ショパンの音楽はこの葉ずれの音を揺籃にして育ったのだと思う。

 ワルシャワへの帰路、運転手が突然、右側の歩道を行く親子連れを指差し、そして自分の胸を指差して「ゾーナ、ゾーナ」と言う。なんという偶然だろうか、彼の奥さんと2人の娘だった。「ゾーナ」が「妻」を意味する言葉だとは後で知ったことだが、彼女たちはしばらく我々の車に同乗して降りて行った。買い物の途中だったのだろう。記念に家族写真を撮り、「ドビゼーニャ」と言ったら、上の娘がきれいな声で同じ言葉を返してくれた。

 「ジェンクイエン!」「ジェンクイエン・バルゾォ!」彼と私とは、しっかりと握り合った右手に左手を添えて、何度もそれを上下した。ポーランド語が全く判らない私と、英語もドイツ語も全く話せない彼とが交わした言葉は、ただ、この一言だけだった。別れ際に彼は、英語、ドイツ語、フランス語、そして最後に母国語で「さようなら」を繰り返して去って行った。恐らくそれは、彼が職業上知り得た別れの言葉のすべてだったろう。ショパンの生家を訪れることが出来た幸運のことを、私は、遂に名前を聞く手段すらなしに別れてしまった彼の人懐っこい笑顔とともに、いつまでも忘れないだろう。

 パリのペール・ラシェーズ墓地でショパンのお墓に詣でたのは、それから12日後、9月28日のことだった。あまり大きくはないそれは、つい先刻供えられたばかりと思われる生き生きした花に埋もれていて、そこだけが不思議に華やいで見えた。

総社高校教諭時代 昭和54年秋(1979)文部省教員海外派遣昭和54年度第16団報告書による