リング・アンサンブルを聴く-2. 21

Last-modified: Tue, 20 Jul 2010 11:37:14 JST (2890d)

  ムジークフェラインのブラームスザールで、ヴィーン・リング・アンサンブルを聴いた。心の底から酔えた。ヴィーンを聴いた、ヴィーンそのものを聴いた感じ。同時に、恐ろしい音楽を聴いてしまった気がする。復活祭コンサートというタイトルでやるのだから軽い気持ちで聴けば良いと思って行った。ある意味では軽い気持ちで聴けた。心地良く酔うことができた。しかし途中から、聴いてはならない音楽を聴いているような気がしてきた。ヴィーンフィルの名手たちが演奏するシュトラウスだから上手いのは当然だが、上手過ぎる。こんなことが出来て良いのかと思ってしまう。アゴーギグの自在な変化の過程でも、一瞬の乱れもない。編曲も素晴らしいが、9人のメンバーでフルオーケストラにできないことをやってしまう。それでいてあくまで軽く、際限なく楽しい。呆れ果てた。

 フルートのヴォルフガング・シュルツの音を聴くのはこれで2度目だが、実に素晴らしい音で、その上凄く面白い人だ。クラリネットのペーター・シュミードルとの演奏中の駆け引きがこの上なく楽しく会場の笑いを誘う。何か遣りそうだなと思っていたら、やはりそうだった。ポルカ「観光列車」の始まりでシュルツがいないなと思ったら、駅員の帽子をかぶって呼び笛を吹きながら出て来た。まともな演奏ではピッコロを吹いたが、途中で玩具のラッパに持ち替えて、シュミードルやヴィオラのコールの耳許に吹き掛ける。2人のいかにも迷惑そうな表情も堂に入っている。アンコールの「トリッチ・トラッチ」では、シュミードルがピエロの仮面をかぶって出て来た。曲が始まる前の、シュミードルの仮面の鼻を弄り回すシュルツの無邪気な表情を見ていると、この人が本当にヴィーン音楽院の教授なのだろうかと思ってしまう。

 年輩の人が多かったせいか足踏みこそ出なかったが、プログラムに載っていた曲目が終わっても誰も帰ろうとしない。初めから1曲ごとの拍手の盛大さには気付いていたが、アンコールではもっぱらオリンピック拍手で、際限なく呼び出し、際限なくアンコール曲を演奏する。ラデッツキー行進曲が出たのでもうこれで終わりなのだろうと思ったら、まだ遣る。ヴィーンではこの類いの演奏会では常識なのかも知れないが、もう今、アンコール曲が5曲だったか6曲だったかも思い出せない。会場を出る人たちの明るく温和な表情を見て、シュトラウスの音楽は麻薬だと思った。健康を促進するこの上なく健全な麻薬だと思う。しかし、恐ろしい音楽を聴いてしまったという私の印象はまだ薄れない。

 オペレッタの「ヴィーン気質」は別として、ヴィーンで、あるいはヴィーン以外の何処ででも、もうシュトラウスは聴かなくて良い、神髄を聴いてしまったと感じる。掌が痛くなるほど拍手しながら、確かに聴いて楽しめはしたが、彼等でなければ絶対に演奏できない音楽なのだと感じた。そのことが私には恐ろしい。ヴィーンの音楽を聴く度に、先日のシュランメルンもそうだが、「ヴィーンはヴィーン、私は日本人」と思わざるを得ない。同じ言葉を繰り返すのは頭の悪い鸚鵡のようで情けないが、私と西洋音楽との距離は決して近くなってはいないと今日も感じた。それが当然で、その当然さに気付いたことがヴィーンに来た収穫なのかも知れないとは思うが、「音楽は世界の言葉」などとは、軽々しく言ってはならないせりふなのだと痛感した。