学校で遣ることが多すぎる

Last-modified: Wed, 21 Jul 2010 06:46:21 JST (3010d)

 誰でも良い、人がそれぞれの立場で真面目に考えた上で答えてくれることを前提にして、「学校で指導して欲しいこと」は何ですかと質問したら、ずいぶん様々な答えが返って来ることだろう。それがどんな答えであるかという種類や質ではなく、問題にしたいのはその量なのである。恐らく毎週60時間くらい、つまり、今の倍くらいの授業時数が必要になるのではないだろうか。子供たちが学校の先生に「さようなら」を言う時間は、karosi(過労死)を世界語にした日本の親たちの帰宅時間よりももっと遅いことになってしまうだろう。

 かなり昔の話だが、「交通安全教育」の必要が急務として叫ばれていた時代がある。命に関わる問題だからおろそかにはできないということで、主としては学校行事の中で取り扱うものとして学校教育の中に組み込まれたと記憶しているが、今はどのような場面でどのように指導されているのだろうか。

 最近良く聞く言葉に「食育」というのがある。敗戦後の疲弊し切った日本で始まった「学校給食」は、教員にかなりの負担増を強いながらも、子供たちの栄養改善には役立って来ただろう。それがここに来て、衣替えをするらしい様子である。戦後も遠くなり、栄養を改善するという当初の役目は終わったのだから廃止しようと言うのならそれで良いが、そうではない。「給食」という言葉と「食育」という言葉の違いを比べてみれば分かる通り、これまでよりも教育としての内容を重視しようということらしい。

 人間にとって「食べる」ことは、命に関わる重要な事柄である。「食べない」ことは死に直結する。だから、食べることは誰でもちゃんと身に付けておかなければならないのは当然である。しかし、それをどこでだれが指導して身につけさせるのか、となると、そこから先は議論百出だろう。

 日本語でも「食べる」と「喰らう」という言葉を使い分けるように、他の多くの国でも、人間が食べることと動物が喰らうこととは違う言葉で表現されることが多い。その内容の違いは、そこに教育が関わっているかどうかということではないだろうか。

 学習によって身につける「話すこと」などと違って「食べること」は本能だから、教える必要などない。食べたい子に食べ物を与えるのは親の役目だからこれは家庭の問題であって、本来学校がやることではなかったのである。朝ご飯をちゃんと食べさせてから子供を学校に送り出すのは、親の役割である。むしろ、親の権利、親権者だけが特別に持つことの出来る、他人には犯しがたい特権なのである。

 家庭と学校と社会とが連携して行う教育の役割の中で、本来学校は何を分担すべきなのかを、真剣に考える必要があるだろう。私はそれを、「学校は『読み書き算盤』を教えるところだ」と表現してきた。非常に誤解の多い言葉であるのは承知の上でそう言ってきた。単純な誤解の代表は恐らく、「学校は国語と算数だけ教えれば良いのか」ということだろう。勿論、そうではない。読み書き算盤というのは、これもまた誤解の多い言葉だが、ほぼ、教科と同意語だと思ってもらっても、それほど大きな違いではない。言葉を変えて言うなら、学習することによってのみ身に付く事柄を、子供たちが学習し易いように組織立てて、専門家である教師が教えて行く内容なのである。

 子供が人間として、人間らしく成長して行く過程の中で、だれがいつどのような役割を果たすべきかを、それぞれの立場で真剣に考えたい。