肩のこらない街ヴィーン

Last-modified: Sun, 20 Jan 2008 20:48:58 JST (3746d)

 高吹連の皆さんお元気ですか。今日は日曜日、近くにある、シューベルトのお葬式があった教会から聞こえてくる鐘の音に耳を傾けながら、この記事を書いています。早いもので、6月の吹奏楽祭で皆さんとお別れしてからもう4ケ月以上、バンドスクエアでこの記事が皆さんの目に止まる頃には、僕が日本を出発してから5ケ月も経っている訳です。

 初めはザルツブルクに住むつもりでしたが、いくつかの理由から、ヴィーンに住居を借りて住んでいます。ヴィーンの街の中心シュテファン寺院から地下鉄で3つ目、駅から歩いて5分という便利の良いところです。ヴィーンには東京と同じように23の区がありますが、僕が今住んでるのは6区のマリアフィルファーという区です。

 先週の木曜日(10月20日)、住居から歩いて7分ばかりの区役所の小さなホールで、ベルヴェデーレトリオという名前のピアノ三重奏団の演奏会を聴きました。無料です。ステージはなく、50ばかりのパイプ椅子が並んでいて聴衆は40人ばかり。演奏者の椅子も、ピアニストの椅子まで聴衆と同じものでした。

 こちらの人は縦横とも大きく、僕の身長では後の方では何も見えないので、最前列で聴きました。ヴァイオリンやチェロとは2m、ピアノまで3mばかりの位置で聴くハイドンの「ハンガリア」。演奏者の息遣いまで全部聞こえます。主要な部分を受け継ぐ演奏者に呼吸を合わせている自分に気づきました。大感激でした。これが室内楽だと思いました。

 ピアノソロ3曲を挟んで、最後はメンデルスゾーンのニ短調。第1楽章が終わったところでチェロ奏者が咳き込みました。演奏はしばし中断、聴衆の1人がとことこ前に出て行って、のど飴を渡しました。チェロ奏者はニコッと笑って頭を下げ、しばらくもぐもぐ、それから2楽章が、和やかな雰囲気の中で始まりました。またまた大感激でした。演奏も素晴らしいのですが、それ以上に、すっとのど飴が持って行ける自然さ、素直に受け取って嘗めることのできる自然さに、僕は感激したのです。

 ヴィーンの音楽は自然体だと思います。しばらく前、ミノリッテン教会という由緒ある教会で、モーツァルトの最後の作品「レクイエム」を聴きました。合唱団の人たちの楽譜が、持ち方もバラバラ、原譜あり、コピーあり、しかも大きさも違う。暗譜で歌っている人もいる。要するにバラバラなのです。

 オーケストラの人たちの楽譜も剥き出しで譜面台に乗っていて、譜面隠しなどありません。それでいて演奏は素晴らしい。絶筆になった「ラクリモーザ」の部分の、息も絶え絶えに、喘ぎ喘ぎ絶頂に登り詰めて行くクレッシェンドの表現など、背筋が寒くなる思いでした。

 自然体は音楽だけではないようです。10月の初め、ベートーヴェンが「運命」等の多くの作品を書いた家が市立の記念館になっていて、そこに行きました。ベートーヴェンが使っていたという、ペダルが5本ついたピアノがあって、写真を撮って良いかと係の人に聞くと、フラッシュなしなら良いと言います。

 2枚撮って帰ろうとするとその係の人が、記念に撮ってあげようと言って僕をベートーヴェンの胸像の前に立たせ、シャッターを押してくれました。その時はセットを解除するのを忘れていたので、バッチリ、フラッシュが光ってしまったのです。その人はニヤッと笑って人差し指を口の前に立て、「黙っていれば判らないよ」。

 ベートーヴェンについてはかなり勉強した人のようで、あそこは行ったか、ここにこんなものがあるよと、いろいろ教えてくれました。写真はその時のものです。演奏中に飴を嘗める(管楽器では当然できませんが)ことを勧めるわけでも、バラバラな楽譜で良い、譜面隠しなどなくて良いと言っているわけでもありません。ただ、ヴィーンではそれがごく普通に行われていて、いかにも自然なのです。

 オペラは別として演奏会場では、有名なヴィーンフィルの本拠楽友協会ホールでも、ステージと客席はほぼ同じ明るさです。そのことがホール全体の一体感を醸し出しています。ヴィーンの音楽は自然体だと思います。

 1994年11月23日発行、岡山県高吹連機関誌「ばんど・すくうえあ」第24号による。